私のTRPG随想 第1話 注釈 (1)『共産党宣言』(1848)の冒頭をもじったもの。 K.マルクスとF.エンゲルスが目指した共産主義社会は、紆余曲折をへて1991年のソビエト連邦崩壊を象徴的な出来事として資本主義社会にやぶれた、というのが一般的な認識だろう。しかし実態としては、ソ連崩壊以前に共産主義社会と資本主義社会の混血児ともいえる社会が世界各地に到来していたわけで、これをもって資本主義社会の勝利と高らかに宣言するのは誤りとされる。とはいえ、思想としての共産主義が世界という舞台から一旦後退したということはできそうだ。 果たしてこの「自壊」という怪物は、TRPGシーンから後退してくれるのだろうか。 (2)最初に白状すると、それほど多くのTRPG製品で遊んできたわけではない。また、あまり熱心にTRPG関連書籍や関連各位のコメントなどを読破したわけでも収集したわけでもない。長年の経験といっても、あくまでいくつかの趣味のひとつという程度であって、FT新聞読者諸氏の経験と比べて多いと考えているわけではない。「そんなヤツがいうことなぞ無視していい」という場合は遠慮なくそうしてほしい。 (3)なぜ経済的視点から語るのかというと、ひとつの理由は、すでにTRPGに関する遊びの文化史的アプローチやアナログゲーム史的アプローチは目にしてきたためだ。であれば、これまであまり取りあげられなかった視点を設定するほうがよいだろう。もうひとつの理由は、経済的視点でTRPGをとらえる価値が十分あると考えているためだ。 後者の背景として、現代日本がかなり成熟した消費社会となっていることがあり、この前提には市場経済がある。TRPGも現代日本という環境で発展してきたわけであり、それは市場経済のなかにおかれてきたことを意味する。 文化史的な視点で語られることが多い分野でも、たいてい市場経済のなかで成り立っている。というより、そこでお金が循環するようになってはじめて分野として認められるのであって、多くの場合、文化史的視点が持ち込まれるのはそのあとだ。お金が回らない、つまり金銭取引が発生しないなら、分野として確立する前に自然と消えていくのが市場経済である。 このような認識のもと、TRPGを遊びの文化史やアナログゲーム史の視点からとらえる前に、まず経済的視点からとらえてみる価値はあるのではないかと考えたのが執筆動機のひとつだ。 ただし専門家ではないため、本文に難解な概念はできるだけ持ちこまず、普通に生活しているなかで感覚的に理解できる範囲にとどめたつもりである。より深く知りたいという方はこの注をお読みいただきたい。 それと、エッセイというのは日本語では随想などと訳される。語り手が思いつくまま筆を走らせるといった類のもので、たまに話が脱線することもあるかも知れない。また限られたTRPG経験ゆえ、偏った解釈を提示していることもあろうかと思う。学術的な正確性などは期待しないでもらえるとありがたい。たかがメルマガの記事ひとつ。多少の勘違いがあっても、寛大な心で受けとめていただければ幸いである。 (4)ユーザーの対義語は、一般にメーカーとされる。 しかしメーカーという言葉は工業製品が頭に浮かびやすいので、ここではデザイナーという言葉を用いることにする。また後述するが、TRPGという遊びを提供する側はふたつの役割に分かれている。この役割を区別するにあたって、メーカーという言葉よりデザイナーという言葉のほうがしっくりくるという理由もある。 (5)親がおもちゃを買って子どもが使うというケースを考えてもらえればわかりやすいだろう。 モノやサービスの販売者と購入者の間で動くのがお金であり、提供者と利用者の間で動くのが所有権や利用権である。ユーザーとはあくまで利用者であって、お金を支払うかどうかは別だ。 (6)TRPGは「ごっこ遊び」の一種である。これについては第3話でふれる予定だが、GMが果たす役割は遊びのユーザー(PL)ではなく、PLの行為に対して結果を告げる、いわば審判だと私はとらえている。審判はユーザーにはなりえず、GMはTRPGというサービスの提供者側に立っているといえよう。 GMがシナリオを準備する行為やセッションで柔軟な対応をみせて素晴らしいストーリーをつむぐ過程には、創作意欲をかきたてる要素があり、GMがそれを楽しめるのは確かだろう。しかしその楽しみをもってTRPGのユーザーととらえるのは、GMの行為とPLの行為を混同しているように思われる。 私からすると、GMを「ユーザー」と呼ぶのは小説や漫画の作者を「ユーザー」と呼ぶようなものである。小説や漫画を制作する行為には創作意欲をかきたてる要素があるが、それをもって作品のユーザーだと考えはしないだろう。作品を楽しむユーザーは読者であって、そのストーリーを提供する作者をユーザーとはいわない。作者をユーザーととらえうるのは、小説であれば万年筆や原稿用紙、もしくは文書作成ソフトの、漫画であればペンや画用紙、もしくはデジタル漫画ソフトの利用者としてになるだろうか。 以上から、GMがTRPGという遊びを楽しんでいるのは確かだが、その役割を考えれば私の答えはユーザーではないということになる。もちろん、このとらえ方にあなたが同意いただけないからといって、あなたのとらえ方を否定するつもりはない。 (7)TRPG製品の基本セットが『プレイステーション』などの家庭用ゲーム機本体にあたり、シナリオがゲームソフトにあたるととらえてみるとよいかも知れない。シナリオ付きの基本セットは、ゲーム機本体とソフトの抱き合わせ販売というわけだ。 ひとつTRPGがデジタルゲームと違うのは、基本セットを購入すれば、運用デザイナーたるGMがゲームソフトに該当するシナリオをアイデアが浮かぶ限り自ら生みだすことができる、という点だ。これは市場経済に何ら影響を与えない行為、つまり金銭取引が発生しない行為である。 もう少しつっこんで話すと、GMがゲームシステムやワールド設定も改変できてしまうため、ゲーム機本体すらその仕組みを公開しているような状態ともいえる。これについては第2話でふれる予定である。 (8)こんな書き方をしておいてなんだが、個人的にはそれほど悲観的にとらえているわけではない。世の中には市場価値がないものなどゴマンとあるわけだし、市場価値至上主義という生き方が魅力的とは思えないからだ。 市場から消えてしまうことは完全に存在が消えてしまうことと同じではない。ひとつはかくれんぼやおにごっこと同じような、お金の回らない遊びとなる可能性がある。もうひとつは自動車レースとeスポーツのレースゲームような、共通の要素は残しつつも別の形となって遊ばれる可能性もある。詳しくは第5話で取りあげるつもりだが、まずは私が現状を憂いているわけではないことをお伝えしておきたい。 (9)もちろん、GMだけでなくPLもTRPG製品の基本セットを購入することはあるだろう。そもそも一度でもGMをした人は絶対にPLができないというルールはないので、GMとして基本セットを購入すればPLとしても開発デザイナーへ支払ったと考えることもできる。最近流行っているオンラインセッションでは、GMだけでなくPL全員がそれぞれ基本セットくらい持っていないと進行に支障が出るという話もある。またプレイガイドの購入などで、PLがいくどか開発デザイナーへ支払いをすることもあるだろう。そういう意味では、PLが開発デザイナーへ支払いを全くしないわけではない。 しかし、逆からいえばそれだけでよいのだ。あとは追加費用なしでも遊び続けることができてしまう。 (10)一般に、GMがPLへ無料サービスを提供するのは強制されたからではない。このサービス提供に対して、GMは金銭報酬ではなく別の「報酬」を受けとっているのだ。これについては第3話で取りあげようと思っている。 余談だが、経済学に「限界費用ゼロ」という言葉がある。限界費用とは、もうひとつ追加のモノもしくはサービスを生みだすのに必要なコストのことである。インターネットを介した様々なサービスの出現などにより、この限界費用がゼロに近づく社会の到来がJ.リフキンによって告げられている。「限界費用ゼロ」とは、要するにタダで追加のモノやサービスを提供できることをさす。 TRPGが日本で遊ばれるようになってから、GM自身がTRPGという遊びを、「限界費用ゼロ」という状態に近いととらえてきたように感じる。実際には、シナリオの準備などでコストをかけているにもかかわらずだ。セッションに参加する全員が、相応の楽しみと相応の負担を分かちあえるよう、この呪縛からGMを解放することができればと思ったりする。 (11)繰りかえしになるが、初期投資を除けば、TRPGで遊び続けるために必ずこれだけは開発デザイナーへ支払わなければならない、という要素が基本的にないのだ。 (12)例えは古いが、『大戦略』というウォーシミュレーションゲームのシリーズがある。このゲームは、事前に用意されたマップ上で、ユーザーが地形に応じた兵器を生産して敵兵器を破壊し、陣地を占領していくというものである。あるバージョンで、このマップをユーザーが自作できるようになった。つまり、ユーザーがあきるまで、追加費用を支払うことなく遊び続けられるようになったわけだ。 TRPG製品も、開発デザイナーが独占していても不思議ではない資産なのに、市場に開放してファンが好き勝手利用するにまかせている状態だといえる。 (13)アプリゲームの「基本無料」というビジネスモデルは、一見「太っ腹だね」と思われるがきちんと成立している。まずユーザーの広告視聴に基づく広告主からの間接収入があり、さらに課金による直接収入もあるためだ。 余談だが、アプリゲームはデジタル製品ゆえ在庫を持つ必要がなく、ユーザーが増えても開発デザイナーに追加コストはほぼ発生しない。ところがTRPGは基本セットなどモノを生産する必要があり、在庫をかかえることになる。在庫は資産として価値を持つものの、保管コストが発生する可能性もある。もし保管コストが発生するならば時間とともに利益が目減りし、売れても儲からないという事態に陥りかねない。いわゆる不良在庫である。あくまで一般的な知識からの推測だが、最近多い書籍タイプのTRPG製品なら、一度出荷したものでも小売店から返本されることもあり得るだろう。 アプリゲームと比べてTRPGは、開発デザイナー側に何かと追加コストが発生するリスクをかかえているといえる。 (14)TRPGがかかえる課題のひとつとして、プロのGMがほとんどいないというのがある。将棋や囲碁、各種スポーツは遊びの一種ではあるが、プロが存在する。TRPGに近い分野のデジタルゲームでも、最近eスポーツという形で高額の収入を得るプロが生まれている。 ただ私がここでいうプロとは、競技者という意味だけではない。もう少し広く、その遊びで収入を得るという意味だ。例えば「将棋倶楽部」や「テニススクール」、「ゲーム専門学校」の指導員ように、有料で将棋やテニス、eスポーツの楽しさを伝えるといったような存在も含む。TRPGの現状はというと、コンベンションやゲームショップのイベント、オンラインなどで、不定期に有料セッションが開催されている程度と思われる。常設の「TRPGスクール」で、指導員が新規ファンにTRPGやGMの楽しさを伝授しているという話は聞いたことがない。 なぜこうなっているのだろうか。もしあなたが何かご意見をお持ちなら、ぜひお聞きしたいと思っている。 (15)長期的には、余暇が減るとシナリオ準備の時間を確保できず、次第に市販シナリオの購入動機が生まれてくると思われる。 しかし主要なTRPGファン層が学生までの年齢であれば、金銭的な余裕もそれほどないため、どうしても自作シナリオで遊ぼうという傾向が強くなることは否めない。つまり、基本セットを購入して、あとは追加費用なしに自分たちで遊び続けることになる。 きちんと調査をしたわけではないが、これは1980年代から1990年代にかけて日本のTRPGシーンが経験した状況であったと感じている。当時、TRPGの主要ファン層が自由に使えたお金は、現代の主要ファン層に比べて少なかったと思われる。お金はないが時間はあるという状況で、若い世代がどういう行動パターンをとるかは想像にかたくない。 また、TRPGはPCの成長という楽しみも大きい。しかし市販シナリオによるキャンペーンは、自作シナリオのキャンペーンと比べてワールド設定の制限やお気に入りのPCのレベル調整など、いろいろハードルが高くなる。この点からも、ファンが追加費用を支払わずにTRPGを遊び続ける傾向が維持されやすかったのだと感じている。 (16)ベテラン層へのサポートについては、正直難しいと感じている。サポートが何を意味するか様々なとらえかたがあると思うが、共通点として「そのTRPG製品を遊び続けるように働きかけること」をあげておきたい。 抽象的な表現ではあるがサポートをこのようにとらえると、ベテラン層へのサポートは「そのTRPG製品が提供する独自の楽しみとは何か」を具体化したものになっていくように思う。 長寿TRPG製品である『D&D』や『T&T』、『ソード・ワールド』などの各シリーズをみれば、それがわかるのではないだろうか。これらはベテラン層が存在しているTRPG製品であり、開発デザイナーがベテラン層に対してどんなスタンスでいるのか形になっているはずだからだ。各開発デザイナーのアプローチ、ベテラン層とのコミュニケーションのとり方などを分析するのもおもしろいと思うが、私では主に情報不足のため力のおよばない話である。熱意をもった他の方におまかせしたい。 (17)TRPGファンは新しくやってくる一方、去っていくこともある。TRPG製品がひとつしかないなら、単純にこの増減だけが重要だ。ところが開発デザイナーとTRPG製品が複数になると、それぞれがシェア争いをすることとなる。競争相手が増えれば増えるだけ、ひとつのTRPG製品のファンは減る傾向を示す。いくら1人のファンが複数のTRPG製品を購入できるとしても、全体としてはファンの分散がおこってしまう。この競争を生き残るには、圧倒的なシェアを獲得するか、TRPG市場規模が拡大し続けるかしかないと思われる。 (18)商業製品の市場以外に同人作品の市場がある。ここで取引されている既存TRPG製品の追加ルールやシナリオなどのサプリメントが、開発デザイナーしか提供できないモノであったならば、今日のTRPGシーンは多少違った様相になっていたかも知れない。しかしTRPG製品が「未完成の状態で市場に出回っているゲーム」であるため、最初から開発デザイナーは独占権を失っている。残された選択肢が別のTRPG製品の開発となってしまうのは自然の流れといえよう。 加えて、開発デザイナーは「世にないモノを作りたい」という傾向が強く、新製品開発に熱が入りがちという点も同じ結果へつながる要因となってきたように感じている。 余談だが、現在のTRPGシーンで発生しているリバイバルブームも、根は同じではないかと思う。 つまりTRPG製品が売れなくなってしまったため、開発デザイナーが追加の収入を得るためにとった手法のひとつととらえることができる。開発コストをさげ、既存ファンの存在によって確実に一定の売上が見込め、いくばくか新規ファンの獲得も期待できる手法がこのリバイバル、すなわち「版上げ」だ。 ファンの立場で「版上げ」のプラス面をとらえると、ゲームシステムがより洗練され、サポートグッズも遊びやすさを意識した内容となっていることだ。遊びの道具という点で、とても重要なことと思う。 念のためだが、この状況をよい悪いという価値判断でとらえようというつもりはない。ゲーム業界に限らず、様々な分野で普通に採択されている手法であり、あくまで何が生じているのかを提示しただけである。 (19)現在のTRPG市場における開発デザイナーは、ブーム期と比べて増えているだろうか。 私が知る限りでは、あまり増えていない。もしかしたら減っているのかも知れない。日本でTRPGが遊ばれるようになって約40年が経っているのにだ。このこともTRPG市場の規模がどの程度かを物語っているように思う。新顔デザイナーが続々登場している他のゲームカテゴリと比較しても、TRPG市場の停滞は明白と感じるが、実際はどうなのだろう。 (20)「TRPG冬の時代」とは、TRPGブームが去った1990年代半ばから2000年代半ばまでの期間をさし、TRPG市場が一旦縮小した時期のこととされる。 一部ではTRPG製品の粗製濫造と質の低下が原因といわれているようだが、そんなことでTRPG市場は縮小しないと思う。「安かろう悪かろう」の製品がその市場を縮小させるなら、低価格の文庫本で市場に出回っていた『T&T(第5版)』(税込680円、1987年、社会思想社)や『ソード・ワールドRPG』(税込720円、1989年、富士見書房)より安くて質の悪い製品が多かったという話になる。しかし実際はそんな状況でなかったはずだ。むしろ大判でムックタイプなどの「高価だが好みはわかれる」製品が市場に出回っていたように記憶している。 また質の高い製品が市場からなくなり、かわりに質の低い製品しか遊べなくなったというなら理解できる。しかし当時もそうだし現在ですら、名作は常に市場に存在しつづけている。つまり質の低い製品が売れないのはわかるが、それによって質の高い製品も売れなくなるという理屈は成り立たない。 私の考えでは、TRPG製品が「未完成の状態で市場に出回っているゲーム」であり、追加費用を支払うことなく遊び続けられるため、主要ファン層の習熟にともなって売上が縮小したのが原因のひとつとなる。